自分の気持ちに素直に生きていくことは大切だと思う反面、実際に行動するのは案外むずかしい。
そう思った経験はありませんか?
そのとき「私」がなにを思い、どんな風に感じたか。周りの反応を気にするあまり、素直な気持ちを、スルリと捕まえそこねてしまったり、本当の気持ちに向き合うことなく、当たり障りのない振る舞いをしてしまったこと。
私には、幾つも思い浮かびます。
けれど、自分の心に正直に、まだ知らない世界を前に「おもしろそうだから、とりあえず行ってみよう!」と軽い足取りで奥会津の昭和村を訪ね、「あ、ここが好きなんだな」と素直に受け止め、昭和村に生きるひとりの女性がいます。
織姫(*1)。一期生として来村以来、25年。「よそ者」ならではの視点を持ち続け、新たに村を訪ねてくるひとと村民との橋渡しの役目を担う、「姉さま」のような存在。
(*1)織姫:昭和村で1994年に始まった「からむし織体験生『織姫・彦星』事業(通称・織姫事業)」の愛称として、体験生のことを村のひとは「織姫さん」と呼ぶ。
道の駅・駅長を務める舟木容子さんは、村内外のあらゆる場所で、からむしと昭和村の魅力を伝え続けています。
昭和村に暮らし続ける理由について、舟木さんは言いました。「そのときそのときに、この村に居たかった。根っこを張っているかどうかより、居たい理由があるうちはここに居ればいい」と。
それまで馴染みのなかった地域に女性が一人でやってきて、葛藤がなかったと言えばそれは嘘になるでしょう。
けれど、プラスな気持ちもマイナスな気持ちもどちらも咀嚼し、その上で昭和村に暮らし続ける舟木さん。舟木さんの昭和村への想いには、「素直に生きること」につい臆病になってしまうひとに届けたい言葉で溢れていました。
舟木 容子(ふなき ようこ)
埼玉県浦和市出身。初代・織姫として20歳で来村。村の男性と結婚し4人のお子さんに恵まれる。2003年、長女が小学校に上がるのを機に「物産館」(現・道の駅)にて働き始める。2015年、「道の駅 からむし織の里しょうわ」駅長に就任し、からむしと昭和村の広報役を務める。
「あなたはどうしたい?」と問われ続けた幼少時代
舟木容子(以下、容子) 小学生のころ、母が着付けを習い始めてね。見よう見まねで自分でも着物を着られるようになって、友達と遊びに行くときに、よく着て行った。
そうすると目立つでしょ。それがまたおもしろいの、「えっ?!」っていう周りの反応が。
私はいつも、「これをやったらどうなるだろう」って思うほうへ進んでいった。実際にやった後の周りの反応を見てみたり、自分がどれだけスキルアップできているか、確かめたりするのがすごく好き。そうやって何事でもおもしろがるの。
── 身体を張ってやってみて、ひとつずつ確かめるんですね。
容子 身体を張らないと覚えないじゃない?うちの家は子どもの頃から、「やりたいことがあったら自分で決めなさい」がモットーだったのね。
母がまず「あんたはどうしたいの?」と聞いてくるから、そのときに「私はこっちに行きたい」って言えないと「あんたはなんにも考えてない」って言われちゃう。
そういうふうに育てられたから、常にどうしたいか、自分の頭で考えて決めて生きていくことは不思議じゃなかった。
── 容子さんは、高校を卒業してからは介護職に就いて、次の方向性を探っていらしたんですよね。昭和村と出会ったきっかけはどのようなものだったんでしょうか?
容子 母から渡された新聞には、「昭和村に来て、幻の着物をつくってみませんか?」って書いてあったのね。私は、からむしも知らないし「昭和村ってどこよ?」と思ったけど、幼少の頃から母の影響で着物が好きだったから、「自分で着物がつくれるんだったら、とりあえず行ってみよう!」って。
「安心したい」からみんな知りたがる
── 実際に村に来てみて、どうでしたか?
容子 村の暮らしはギャップの連続。私は子どもの頃から「あんたはどうしたい?」と育てられてきたけど、ある意味外から閉ざされた、陸の孤島のような昭和村の場合、選択肢が少なすぎて自分で考えることが少ないよね。
だからこそ、守られてきた文化がある一方で、ここで自分の子どもたちを育てるときには、まず選択肢を用意してあげなきゃいけないもどかしさはあったかな。
── 情報量の多い都会の生活に戻りたいと思ったことはないですか?
容子 ないかな。だってまだ、村の暮らしでわからないことも知らないこともいっぱいあるもの。昭和村って、外の常識が通用しないくらい、独自の文化が出来上がっている。その上、強力なネットワークの中に私たち(織姫)が入って来たでしょ。来村当初はほんとに情報の攻防戦だったよね。
── というのは?
容子 今ではすっかり慣れたけど、よそから来たひとの出身地や家族構成をみんなすごく知りたがるのね。「どうしてそんなに知りたがるんだろう?」と私はずっと考えていて。時間が経つうちに、「安心したいから知りたいんだ!」ってわかったの。
── 安心したいから?
容子 昭和村はもともと、バックボーンをすべて知っているひとたちのコミュニティ。ここでは相手を信用するための材料が、そのひと自身だけでは済まないの。生まれや背景を把握することで、ようやく安心につながる。
だから、村に来たばかりの後輩の織姫たちにはとりあえず、「聞かれたことは隠さずに答えなよ。そうすることで安心して仲間って認めてもらえるんだからね」ってことだけは伝えるの。
心地よく生きていくためには対話がだいじ
容子 そもそもお互いの常識が違うから、生活していて理不尽に思うことはすごくたくさんあるんだけど、私は「その理不尽が常識になったのはどういういきさつ?」っていうのを知りたかった。
要は、「昭和村の常識がどういういきさつで当たり前になったのか」、その根本に興味があったの。それがわかると、なかには筋道立てて話せば覆るものもあるかもしれないでしょ。
── 容子さんは、昭和村の常識を覆したくて暮らし続けているんですか?
容子 それも一理ある(笑)。覆すというよりも、常識を当たり前のものと固定せずに緩めていくことがすごくだいじな作業と思って、意識的に続けているかな。
もちろん自分がしたいことを、ただワガママに言っているだけでもダメ。「私はこう育ってきて、こう思ったからこうしていきたい」と建設的に伝える努力をする。
「あなたは今までどうしてきたの?」と聞いた上で、「これからはこうしていきたいよね」とか、「私はこうしたいけど、あなたはどう?」と、対話を続けるの。
村のひとが「あぁそうだな」って納得したら私の勝ち(笑)。そうやって、村の常識とは違う感覚を持つひとが暮らしていると伝えることで、村独自の常識も一個ずつ緩んでいくのよ。
── すでにある常識に受け身になるのではなく、気になることをその都度伝えて、対話を重ねる。ひととひとが関わり合って暮らしていく上で、とても大切なことですね。
容子 そうそう。私たちは「常識」に則って生活していかなきゃと思い込んでいるけれど、本当はそうじゃない。私やあなたが「どうしたら心地よく生きていけるか」、対話を通して導き出していくことがいちばんだいじ。
「間口は広く」をモットーに
── 容子さんは現在、「道の駅 からむし織の里しょうわ」駅長として、からむしと昭和村の広報をされていますよね。暮らしのための生業のひとつとして続いてきた「からむし」を、観光資源にしていくことについてはどう思いますか?
容子 私のモットーは間口は広く! 狭い間口では誰も入ってこられないでしょ。どこまでも間口を広げていいと思う。私たちには「元織姫」っていう肩書きがいつもついて歩くわけよ。「織姫さん」というコピーも含め、なにかしらで誰かの目に留まって、まずは昭和村とからむしを知ってもらうきっかけになればいい。
そんな中でひとりでも、からむしや村の魅力を「もっと知りたい!」と思ってくれるひとが現れたらいいなぁって。
通過点であってもいい
── 昭和村で過ごした25年間を通して、村を取り巻く状況の変化をどう思いますか?
容子 村民はこれから否応なく減っていくし、村の状況が変化していくのは当然だよね。これから訪れるひともいるだろうし、そう遠くない将来、きっと移住してきたひとの方が多くなるかも。
どんなタイミングで昭和村に来たとしても、それぞれに居たい理由があるうちはここにいればいい。私の場合はただ、そのときそのときに居たかったんだよ、昭和村に。
でも変化していく過程で他にやりたいことが見つかって、それがこの村でできないことであれば、他でやればいいというだけ。離れたからといって、村とのつながりがなくなるわけではないんだから。
── 私は逆に、「根っこを張って生きること」に囚われ過ぎていたのかもしれません。
容子 根っこを生やさないと居られない理由はどこにもないよ。ここではみんな「腰落ち着けて」と言うけど、根無し草が悪いわけじゃない。そのとき自分で落ち着いている気がしたらそれでいいんじゃないかな。
昭和村が通過点であってもいいんだよね。ここを通って次に行って、「私、こういうところに居たことがあるんだよ」って各人がスピーカーになっていけばいいと思う。
── それってまさに関係人口(*2)。ですね。
(*1)関係人口:「地域に関わってくれる人口」のこと。「定住人口」や「交流人口」とも区別され、「住んでいなくてもその地域を応援する仲間」と定義され、2017年頃から使われ始めた言葉。
容子 そうそう。村に来て25年間、私はいろんなひとから聞かれ続けているの。「なんで来たの?なんでここに住み続けるの?」って。そんなときに、スッと出てくる言葉は「昭和村が好きだから」。そうとしか答えようがないもん。
だから、居たいと思える場所に、居たいと思えるひとと居たらいいのよ。そこでまた、なにか次の展開が生まれたらラッキーって思いながら。行きたい道を探すための最初の一歩は、「おもしろそう!」とか「ここが好き」で全然いいんだよ。
自分の「好き」に、素直に生きる
素直であることと心地よさは地続きで、だからこそ素直に生きるひとの笑顔はやさしい。
昭和村を訪ねる度に、容子さんは「おかえり」とあたたかく、私たちを出迎えてくれるようになりました。
居たいと思える場所も、一緒に居たいと思えるひとも、ひとつとは限らないこの時代。どこにでもつながり、生き方の多様性が広がるいまだから、不安や葛藤をないものとせずに、「いまなにを感じて、私(あなた)はどうしたい?」と問いかけ向き合い続ける。
人生の舵取りを誰かに委ねるのではなく、自分の「好き」に素直に生きること。
本来の「素直さ」は、個々人のワガママや身勝手を拠り所にするのではなく、自身や他者に誠実に向き合い続ける姿勢なのだと、容子さんは教えてくれました。
文章/中條美咲
編集/小山内彩希
写真/小松﨑拓郎
(この記事は、福島県昭和村と協働で製作する記事広告コンテンツです)
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